<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>岩崎学術出版社</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/atom.xml" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2010://1</id>
   <updated>2010-03-01T07:52:10Z</updated>
   <subtitle>岩崎学術出版社のホームページ。東京都文京区。精神分析、精神療法、心理療法、精神医学、臨床心理学など関連諸分野書籍の出版・発行。新刊情報、図書目録、常備店一覧等</subtitle>
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.34</generator>

<entry>
   <title>摂食障害の不安に向き合う</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2010/03/post_239.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2010://1.451</id>
   
   <published>2010-03-01T07:20:33Z</published>
   <updated>2010-03-01T07:52:10Z</updated>
   
   <summary>摂食障害の不安に向き合う|せっしょくしょうがいのふあんにむきあう</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="020精神医学・精神医療" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="040行動療法・認知療法" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="110" label="対人関係療法" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="114" label="摂食障害" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>●目　次</strong>
　はじめに
第１章　摂食障害に対人関係療法的アプローチを適用する根拠
第２章　摂食障害患者における不安を考える──「役割の変化」という視点
第３章　不安を扱う基本姿勢
第４章　症状を位置づける──患者の症状に干渉しないことの意味
第５章　治療者の不安に向き合う
第６章　家族の不安に向き合う
第７章　不安をコントロールして現状を受け入れる──「位置づけ」という考え方
第８章　不安をコントロールして前進する──「土俵」に乗せるという考え方
第９章　病気と治療を「位置づける」
　文献
　あとがき]]>
      <![CDATA[<strong>「はじめに」</strong>より抜粋●
　患者の不安によく注目するようになってみると、そもそも拒食症の発症プロセスそのものがＰＴＳＤと同様の構造を持っていることが多く、実際の治療ではＰＴＳＤの治療と同じようなプロセスを踏んでいくことに気づくようになった。
　ジュディス・ハーマンは、心的外傷の中核を「無力化 と他者からの離断」だと言っている。「無力化」も、それまでの自分の有力感からの離断であると考えれば、ＰＴＳＤの中核的特徴は「離断」にあると言える。それまでの自分からの離断、周囲からの離断、人生からの離断が患者を苦しめる。そして、有効な治療においては、つながりの回復が必ず起こるものである。私が拒食症の治療で行うことは、成長という土台の上でのつながりの回復であり、実質的にはＰＴＳＤの治療における作業とまさに同じである。
　ところが、すでにＰＴＳＤと同じような状態にある拒食症患者に対して、さらなるトラウマを与えるような治療が当然のように行われていることについて、私は強い懸念を抱いている。ＰＴＳＤを少しでも勉強している治療者であれば、ＰＴＳＤの患者に対してＡ子が受けたような治療的介入をすることは考えられないだろう。それがどれほど危険で有害なことか、理解できるからだ。拒食症は強迫性障害やＰＴＳＤのように不安障害として分類した方がよほど現実の治療に即していると私は思うが、学術的な分類はさておいても、拒食症を摂食障害としてではなくＰＴＳＤ様の障害として見ることによって、より多くの治療者が適切な治療を行えるようになることを願っている。
　本書では、摂食障害の治療の実際を、特に「不安」に注目して描いていきたいと思う。摂食障害の治療をするときには、特に拒食症については、治療者の仕事は「安心の提供」であって、体重を増やすことや症状をなくすことではない、という認識を持つくらいがちょうどよい（患者がよく治る）と私は思っている。病気についての心理教育をきちんとしていくことも、対人関係療法という特定の治療法を用いていくことも、すべては安心の提供を目的としたものであるという位置づけをはっきりさせると、治療が大変すっきりと整理されて効率的になる。治療者にとっても確かな指針になるので、治療も安定する。この前提には、安心することによって摂食障害は治っていくという仮説があるわけだが、私の今までの経験からは、それが正しいと考えている。制限型の拒食症患者の中には、安心しただけで治っていく人も実際に存在する。安心しただけでは不十分で、体重を増やすための行動療法的な取り組みが必要になる人もいるが、それも、安心の上に初めて成立することである。安心の中に「治りたい」という願望は生まれ、安心から生まれた余裕の中に「少しずつ行動を変えてみよう」という勇気が生まれる。したがって、拒食症患者にとって、安心することは、必要十分条件である場合もあるし、少なくとも必要条件であると言って過言ではないと思う。
<strong>水島広子</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>PROHIBITION OF DON’T LOOK</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2010/03/prohibition_of_dont_look.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2010://1.450</id>
   
   <published>2010-03-01T06:30:36Z</published>
   <updated>2010-03-01T07:59:46Z</updated>
   
   <summary>PROHIBITION OF DON’T LOOK|PR</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="82" label="日本の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      Preface

1 Pre-oedipal ‘Taboo’ in Japanese Folk Tragedies

2 Metaphorization―Making Terms

3 The Wounded Caretaker and Guilt

4 Amae and Its Hierarchy of Love

5 Transience: Its Beauty and Danger

6 Cross-Cultural Varieties in Experiencing Affect

7 Psychotherapy in “Shame Culture” : From a Dramatic Point of View

Author’s Introduction by Jhuma Basak

Explanatory Notes by Jhuma Basak

Index
      過去35年間の分析実践を通して，北山は自らの分析的仕事の「バックステージ」にきわめて深い敬意を表してきた。そこで彼は最も貴重な時間と空間を被分析者らと分かち合い，ともに「プレイ」しながら，被分析者の人生を統合の道へと旅してきた。この意味で，分析のプロセスそのものが，中を覗くことを「禁止」された幕の向こうで起こっているようにも見える。しかし，（中を覗くとき）同時に知の自由を招き，組み入れる，そんなユニークな禁止こそが，中に閉じ込められた諸々のいわゆる禁止から個人を解き放つのである。そこではもはや，だれも恥じたり怒ったりして逃げ出す必要はない。人の心の底知れぬ深みが理解され，静かな平安が訪れる瞬間である。精神分析の仕事における北山の探求とは，こうしたものなのである。
ジューマ・バサック（インド精神分析学会）　「著者紹介」より抜粋訳
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>子どもの発達と情緒の障害</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/12/post_238.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.444</id>
   
   <published>2009-12-07T03:56:01Z</published>
   <updated>2009-12-07T04:05:26Z</updated>
   
   <summary>子どもの発達と情緒の障害|こどものはったつとじょうちょのしょうがい</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="020精神医学・精神医療" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="050発達・思春期・老年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>目次●</strong>
　
まえがき（本城　秀次）
<strong>第Ⅰ部　発達障害をめぐる問題</strong>　　
第1 章　乳児期からはじまる広汎性発達障害の発達支援（河村　雄一）
第2 章　広汎性発達障害と強迫（石井　　卓）
第3 章　自閉症圏の子どもとの関わりの支援（水野　智之）
第4 章　発達障害の思春期以降の合併症―統合失調症様症状の合併について（吉川　　徹）
第5 章　成人の高機能広汎性発達障害の診断と支援（大村　　豊）
第6 章　発達障害の地域医療（平野　千晶）
<strong>第Ⅱ部　親と子どもの育ちへの支援</strong>
第7 章　周産期から乳幼児期の親子関係への支援（永田　雅子）
第8 章　児童期の心理療法（金子　一史）
第9 章　学校臨床―つなぐことの意味（小倉　正義）
第10章　親子の病理の世代間伝達（高橋　靖子）
第11章　心理臨床に生かすアタッチメント研究からの視点（瀬地山葉矢）
第12章　今日の思春期の情緒的問題―そだち失調の視点から（大高　一則）
<strong>第Ⅲ部　子どもの情緒的問題へのアプローチ</strong>
第13 章　トラウマ臨床と児童青年精神医学（杉山登志郎）
第14 章　子どものうつ（猪子　香代）
第15 章　児童・思春期の気分障害―双極性障害と若年周期精神病（若子　理恵）
第16 章　子どもの解離傾向と精神医学的諸問題（村瀬　聡美）
第17 章　広汎性発達障害児の不登校（野邑　健二）
第18 章　非行の臨床―少年との心理面接からみえてくるもの（河野　荘子）
第19 章　思春期・青年期の摂食障害への心理アプローチ（清瀧　裕子）]]>
      <![CDATA[<strong>「まえがき」</strong>より抜粋●
　従来，わが国では子どものこころの問題に関する関心は比較的乏しく，子どものこころの問題に対する医学的，心理学的対応はきわめて貧弱なものであった。しかし，そうしたなかで，名古屋大学医学部精神科は，1936 年4 月に堀要元教授によってわが国最初の児童精神医学の専門外来が作られて以来，児童精神医学の代表的な医療施設として，その歴史と伝統を誇っている。一方，教育学部では1953 年以来，心理相談活動を実施しており，わが国における心理臨床家の養成機関として重要な役割を演じてきた。
　近年，発達障害の増加傾向が指摘され，日本児童青年精神医学会における学会発表も発達障害に関するものが多くを占めている。さらに，これまで児童精神医学にあまり関心をもたなかったような小児科や成人精神科の専門家もこれらの問題に続々と参入してくるようになった。もちろん多くの専門家が子どものこころの問題に関心をもつことはそれ自体望ましいことと思われる。しかし，内科などから紹介されてくる成人ケースにしばしばアスペルガー症候群などの診断がつけられているのに，生育歴はほとんどまったく聞かれていないといった事態に直面すると，この症例をどうしてアスペルガー症候群の成人例と診断したのだろうと不思議になってくる。
　私は常々発達障害の成人例の診断はきわめて難しいと感じている。そのため，そういった症例の診断をするさいにはかなり慎重になり，十分な時間をかけるようにしている。それでも自信をもった診断ができないことが多い。厚生労働省は，子どものこころの問題も扱える小児科医を養成するために，研修会等を催しているが，それに加えて，あるいはそれ以上に，児童精神医学を専門とする医師の養成が必須のものと考えられる。
　少し話が医療サイドに偏ってしまったが，心理臨床家に関しても多くの困難が存在している。
　児童精神医学の臨床において，心理臨床家は医師の必須のパートナーである。心理臨床家の働きなくして，遊戯療法など非言語的な心理療法や心理検査は実施し得ない。そのように重要な存在である心理臨床家にとって医療現場における立場は曖昧なものであり，待遇もきわめて悪い。今後子どものこころの問題にともに立ち向かうパートナーとして，適切な処遇がなされることが必要不可欠である。
　これまで縷々述べてきたように，名古屋大学の児童精神医学の歴史は長く，わが国における自閉症の第一例も名古屋大学から発表されている。しかし，従来名古屋大学の学風は堅実で，レベルは高いが，あまり派手さはないという印象であるように思われる。そこで，このような堅実な臨床活動を文字にまとめ，それを世に問うのも重要なことではないかと思い，今回，若い人たちを中心にわれわれの臨床活動を本として発表することにした。
<strong>本城秀次</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>F.フレーベルにおける遊戯思想の成立と展開に関する研究</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/12/f.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.443</id>
   
   <published>2009-12-07T03:05:32Z</published>
   <updated>2009-12-07T03:55:15Z</updated>
   
   <summary>F.フレーベルにおける遊戯思想の成立と展開に関する研究|えふふれーべるにおけるゆうぎそそう</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="070社会福祉・教育学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      目次●
　
　まえがき
　凡　例
序　章　本研究の課題と手続き
第1部　フレーベルにおける遊戯思想の成立過程
　はじめに　第1部の問題設定
　第1章　「球体法則」思想への軌跡─フレーベルの自己形成およびペスタロッチとの邂逅─
　第2章　「球体法則」思想の定式化と進展
　第3章　「生の合一」思想への展開
　第4章　「象徴」–「予感」概念の成立
第2部　フレーベルにおける遊戯思想の展開過程
　はじめに　第2部の問題設定
　第1章　恩物にみられる遊戯思想―第二恩物を中心に―
　第2章　『母の歌と愛撫の歌』にみられる遊戯思想
　第3章　運動遊戯にみられる遊戯思想
終　章　フレーベルにおける遊戯思想の成立・展開
　
　注　釈
　主要史料・参考文献
　あとがき
      <![CDATA[序章より抜粋■本研究は，19世紀前半のドイツにおける代表的な教育家，教育思想家の一人とされ，特に幼稚園（Kindergarten）の創始者として知られているF.W.A.フレーベルの教育思想の基幹部分が形成される過程，そして彼がそれをもとにオリジナルな諸遊戯を相次いで考案してゆく過程を，一貫して彼の「遊戯思想」の成立・展開過程として包括的にとらえ，それに対して解釈・検討を加えようとするものである。
　従って，具体的な考察の手順や論文構成の柱を定めてゆくうえでも，まずは上記の（1）「成立過程」と（2）「展開過程」という順序で考えてゆくのが好都合であろう。論文構成のうえで，遊戯思想の「成立過程」を第1部，「展開過程」を第2部とする。以下ごく簡単に，研究全体を見通して，作業手続きの概略と構成の大枠を定めておきたい。
まず，フレーベルの遊戯思想の成立過程を検討する第1部から，考えていこう。第1部において扱うべき主題は，すでに何度かとりあげてきた通り，まずもって遊戯の目標理念となる「生の合一」思想と，方法原理を提供する「象徴」–「予感」概念である。しかしながら，「生の合一」思想が持つ意味内容や，その背景にある課題性を理解するためには，これもすでに言及した通り，その母体と目される「球体法則」思想を参照せざるを得ない。また，「象徴」–「予感」概念も，実はその着想の源を，この「球体法則」思想にまで遡及することができそうである。さらに，そうした「球体法則」思想，とりわけそこに向かう思想的な動因を探るうえで重要だと思われるのが，ペスタロッチとの関係を中心とするその前史に関する検討なのである。そして，以上列挙してきた第1部の検討主題を，思想的な前後の流れのなかで検討すべく，時系列に従って並べ直してみるならば，まずは①ペスタロッチとの関係など，「球体法則」思想成立の前史（第1章），次いで②「球体法則」思想の成立（第2章），そしてそこから枝分かれして，③「生の合一」思想の成立（第3章）と，④「象徴」–「予感」概念の成立（第4章），という手順になろう。
　次は，フレーベルの遊戯思想の展開過程を検討する第2部である。第2部においては，フレーベルが考案した主要な遊戯三つ，すなわち，恩物，『母の歌と愛撫の歌』，運動遊戯をとりあげ，第1部における検討の成果にもとづいて，それらの諸遊戯を支えている思想的基底と照合しながら分析を行なうこととしたい。そして，この三つの遊戯を時系列に従って並べるうえでは若干の検討が必要になるが（第2部「はじめに」3.参照），結局は，①恩物（第1章），②『母の歌と愛撫の歌』（第2章），③運動遊戯（第3章）という手順で扱うことになる。しかしまた，心がけたいのはさらに，この三つの遊戯の間における相互関連，そしてさらに言えば成熱・進展の様相を検討することである。そのため各遊戯を順次個別に検討した成果を踏まえつつ，三つの遊戯の間における進展過程を探ることをも試みたい。
<strong>山口文子</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>トラウマの精神分析</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/11/post_237.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.437</id>
   
   <published>2009-11-06T04:13:09Z</published>
   <updated>2009-11-06T04:36:28Z</updated>
   
   <summary>トラウマの精神分析|とらうまのせいしんぶんせき</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="020精神医学・精神医療" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="113" label="トラウマ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="79" label="米国の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>目次●</strong>　
　
日本語版序文
序　文
　
1　情緒生活のコンテクスチュアリティ
2　情緒的トラウマのコンテクスチュアリティ
3　トラウマの現象学と日常生活の絶対性
4　トラウマと時間性
5　トラウマと「存在論的無意識」
6　不安，本来性とトラウマ
7　結語──「同じ闇の中の同胞」
参考文献
　
日本語版付録　ストロロウと訳者の対話
解　説
索　引]]>
      <![CDATA[<strong>第1章</strong>より抜粋■
　精神分析の世界では，長年にわたり繰り広げられてきた議論がある。それは，治療上の変化のプロセスにおいて，認知的な洞察と情動的なアタッチメントのどちらが主役をなすのかという問題に関するものである。この議論の際に用いられてきたこれらの用語こそが，人間の体験を認知的領域と情動的な領域に区分したデカルト哲学の二分法に直接的に由来したものである。ポストデカルト派の哲学の世界において，このように人為的に人間の主観性を分割することは，もはや理にかなったものとはいえない。認知と情動，思考と感情，そして解釈することと関係をもつことは，実体をもたず，現実に根付いておらず，コンテクストから切り離されたcogito（「我思う」）なる独立（隔絶）した心という教義を産み出した，まさに非常に孤独な男であるデカルト自身の場合のように，病的な場合においてのみ，分離可能なのである。
　精神分析の解釈の治療作用は，それがもたらす洞察だけではなく，それが分析家がその患者の情動生活にどの程度波長を合わせることができたかを示す程度にも存することを認識することができれば，解釈を通じた洞察と分析家との情緒的なつながりという二分法は偽りのものであることが明らかになる。よい（つまり，変化を引き起こすような）解釈とは関係性のプロセスであり，その中核的な構成要素は，患者が自らの感情をわかってもらえたという体験であることを，私は長きにわたって主張してきた。さらには，その変化を引き起こす力を与えるのは，わかってもらえているという体験の，特定の転移的な意味なのである。というのは，患者は，分析的なかかわりあいで呼び起こされた発達上のさまざまな願望のつづれ織りの中に，その体験を織り込んでゆくからである。
　解釈は患者と分析家の間の情緒的な関係を離れては存在しえない。それは分離不能なものであって，私が思うに，この関係性の中で決定的な次元といえるものである。相互主観性システム理論の用語でいうなら，昔からある，反復され続けてきたオーガナイジング原則を省察的に認識する患者の能力の，解釈による高まりは，分析家との間の現在進行形の関係性の体験の持つ情動的な影響や意味づけと同時並行して起こるものなのだ。両者は，体験をオーガナイズする代わりのいくつかの原則が利用可能なものとなっていくことを確立していく，一つの治療プロセスにおける分かちがたい構成要素であり，この新たなオーガナイジング原則によって患者の情緒的領域は拡張され，より豊かなものとなり，より柔軟でより複雑なものになっていくことができるのである。この発達プロセスが維持されるためには，分析的な絆が，心の不安定化と再構成の循環に付随的に生じる，苦痛で，恐ろしい情動状態に耐えぬけないといけない。そして，精神分析における相互主観的な場の中での情動体験に対して臨床的な焦点を当てていくことが，多くの点で治療上の変化のプロセスをコンテクスト化していくことは明らかなことなのである。
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>覆いをとること・つくること</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/11/post_236.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.435</id>
   
   <published>2009-11-02T00:55:34Z</published>
   <updated>2009-11-02T01:06:10Z</updated>
   
   <summary>覆いをとること・つくること|おおいをとることつくること</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="82" label="日本の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>主要目次●</strong>
　
第一章　「覆いをつくる」─精神分析的精神療法へのイントロダクション─
第二章　症例報告集
　　ある強迫神経症患者の吐き気について
　　「汚したい」について─ケガレの精神分析に向けて─
　　妄想患者の治療における比喩の発生─六年前の治療記録から学ぶ─
　　文字通りの経験が比喩になる過程─「橋架け」の過程─
　　自虐的世話役について
　　「不眠不休」について
　　「抱えること」と媒介的退行
　　「ありがとう」と言えない─ある青年─
　　身体とことば─「からだの声を聞く」─
　　自らをヌイグルミにして生きる患者─言葉と意味の上滑りの取り扱い─
　　転移と現実の間─関係を織り込み紡ぎ出すこと─
　　話すことの役割と限界─分接の逆説を生きる─
第三章　症例の「その後」から学ぶ]]>
      <![CDATA[<strong>「まえがき」</strong>より抜粋■
　
　本書はこのままでは、本格精神分析の王道を目指す本ではない。しかしながら、これを支える精神はこのままでも精神分析の大義とは矛盾しないはずである。そしてここで、そういう本書が醸し出す、広義の精神分析とは矛盾しないが、「純粋な精神分析」とは矛盾する、という外に与える印象を自覚することは極めて重要であり、著者は分析的治療者としてそれを引き受けることを主張するものである。
　というのも純粋精神分析や本格精神分析は、本来、防衛の強い「普通の人たち」や偏った防衛を肥大させている病者に対してのものであり、歪んだものであるにせよ、分厚いものであるにしても、潔く、何とかその覆いを除去しようとする治療なのである。その上、適応に成功する「普通の人々」は、自分に正直ではなく、嘘つきであり、なかなか中身を見せはしない。〈私（わたくし＝自我）〉とは「我を隠すこと（ワ＋カクス）」を身上としており、それが機能している限りは〈私〉は私なのである。
　精神分析は「深層心理学」なのであり、「心の解剖図」「心の外科学」を微細に描き明確に提示する精神分析に対して、「精神内科学」を目指した本書は、精神分析から学びながらも、実践は本格的精神分析ではないところを、第一に強調しておきたいのだ。こうなるとは人生も大半を終えた頃になるまで気がつかなかったが、それは、日常臨床の現実と、私自身の内部からの声に誠実につきあってきた結果である。それに、本書で示す対象者の防衛はもろくて、心の中身が露呈しており、中身の開示の程度はいわゆるノーマルな「普通の人々」とは比べ物にならない。ここに登場するケースは、症例Ｆを除いて、「普通」ではなく、私が初めて会った頃は特に、その身を守る適応的な防衛というものが破綻した人たちだった。だからこそ、「覆いをとる」というより「覆いをつくる」治療が求められたのである。今から考えても、彼らは「普通の人」たちよりも、あるいは、私なんかよりも、嘘のつけないずっと正直な人たちであった。
　こうして、本書の内容を真似される時には、また本格精神分析の擁護のためにも、それが踏まえる「心の解剖学」としてはフロイト、クライン、ウィニコットなどの読書は並行して勧められる。
　九州大学の退職の年に当たり、大学の授業で、これらの報告を使って議論した時の、学生たちとの質疑応答を基本にして「Ｑ＆Ａ」を編集して添えてみた。これで、皆さんに「使って」もらいやすくなるだろう。第二章の症例報告集の前半は著作集と重複があるが、再録に当たり、「新注」と特記して脚注を増やした。同時に、発展途上の生ものらしく、人工的にシステマティックな形をとらぬ形でその有機的ネットワークを増殖させてみた。結果的に、ある程度は自分に正直であると同時に野心的な内容となり、私はこういうことを言うために生きたのだということが見える本になったと思う。ライフワークとは、こういうものなのだろう。　
<strong>北山修</strong>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>対象の影</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/10/post_235.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.427</id>
   
   <published>2009-10-26T07:53:02Z</published>
   <updated>2009-10-26T08:10:43Z</updated>
   
   <summary>対象の影|たいしょうのかげ</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="76" label="対象関係論" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="77" label="英国の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>●目次</strong>
　
謝辞
はじめに
　　
第1部　対象の影
第1章　変形性対象
第2章　運命の手としての対象の精神
第3章　対象としての自己
第4章　他者の劇場にて：夢見ること
第5章　トリセクシュアル
　
第2部　気分
第6章　気分と保存過程　
第7章　愛しつつ憎むこと
第8章　規範病
第9章　抽出的取り入れ
　
第3部　逆転移　
第10章　虚言者
第11章　精神分析家とヒステリー患者
第12章　逆転移の表出的な使用
第13章　自己分析と逆転移
第14章　依存へのありふれた退行
　
第4部　エピローグ
第15章　未思考の知：早期の考察
　
解題]]>
      <![CDATA[<strong>解題</strong>より抜粋
　
本書は，1987年に刊行されたChristopher Bollasの最初の著書，The Shadow of the Object : Psychoanalysis of the Unthought Known（Columbia University Press/New York）の全訳である。彼の著書の邦訳としては２冊目となる。
本書は，現在，英国中間学派（独立学派）の代表的論客として著名なBollasの様々な理論の核心を知る上で重要な著作であるが，そのオリジナルな着想は本書の様々なところで表れており，発売当初より大変世評が高かったことで知られている。本書の題名である「対象の影The Shadow of the Object」は，フロイトの著作『悲哀とメランコリー』のたいへん有名な一節から採られている。その一節は本書の冒頭に引用されているが，自我と自己の関係や，対象が喚起するものなどについて述べたものであり，Bollasがその後一貫して関心を抱いているテーマを端的に示したものと言えると思う。
本書はBollasのオリジナルな思考の宝庫と言えるが，最初の著書であるが故に，一貫性が欠ける点が多少ないわけではないように思われるし，原書が刊行されたのは1987年であるという点から，現在では当たり前のこととして受け取られていることも含まれている（特に逆転移の活用に関して，Bollasが述べていることには今日，常識的となっていることが含まれている）。そういう意味で，本書には少しクラッシックな点もあるが，Bollasのオリジナルな思考が湧き上がる様を見ることができる。
<strong>館直彦</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>人生から学ぶ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/10/post_234.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.423</id>
   
   <published>2009-10-26T07:26:33Z</published>
   <updated>2009-10-26T07:36:25Z</updated>
   
   <summary>人生から学ぶ|じんせいからまなぶ</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="76" label="対象関係論" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="77" label="英国の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>●目　次</strong>
　
監訳者まえがき
まえがき　ポール・ウィリアムズ教授
謝　辞
　
はじめに　　
　
第１部　発　展　　
第１章　人生から学ぶ
第２章　方向感覚の出現
第３章　理論のための場所を見つけること
第４章　「いいえ」ということを学ぶ
第５章　憎しみとコンテインメント
第６章　サミュエル・ベケットの母国語との関係
第７章　喪の哀悼と哀悼の失敗
第８章　実践中のこころの中のスーパーヴィジョン:症例提示
第９章　臨床的な触角を発達させる
　　
第２部　　熟　考
第10章　説明しにくいいくつかのこと
第11章　確実さと確かでないこと
第12章　振り返り
　
参考文献
訳者あとがき]]>
      <![CDATA[<strong>監訳者まえがき</strong>より抜粋
　
「感動のライフ・ストーリー，そして精神分析家の誕生」　　　
　
私はこの小文に，精神分析の専門書にはまったく似合いそうもない表題をつけました。しかしおそらく，本書『人生から学ぶ』を読んで感動しない人はいないでしょう。とりわけケースメントさんがみずからを語る最初の２章を読んだときには，彼が歩み続けた人生の重さと素晴らしさに大きくこころを動かされます。もちろん他の章でも，新たな感動に見舞われました。翻訳を進めながら涙のために霞んでしまうことが，幾度となく私にはありました。ひとりの精神分析家の誕生には，みずからの人生の出会いからの深い学びがあったのでした。
しかし，それだけではありません。その人生から学ぶこと，人生の真実に触れ，もちこたえることによって学ぶことの大切さを，精神分析の臨床家として，さらにはひとりの人間として私たちは学ぶでしょう。私は思います。私たちは精神分析の臨床家にはなれるとしても，どんなに努力してもフロイトにもビオンにもウィニコットにもなれません。なれるのは，せいぜいなんとか学派になるだけです。それにしてもやはり，私たちは私たちが実際に生きているその在り方でしか臨床家でありえないのです。ただその等身大の私たち自身，私たちの人生が，真摯に学ぼうとし続けるのなら，学びの宝庫でもあるのです。パトリック・ケースメントはそのひとつのモデルとして，勇敢にも自分自身を提示しました。
ケースメントさんは援助の専門家として保護観察官，ソーシャルワーカー，心理療法家，精神分析家と独自の歩みを進めてきました。本書に収められているそうした専門職としての経験も，それぞれの専門職に現在就いている方が本書を読まれるならとても役に立つものです。私は本書が精神分析にかかわっている方や関心を抱いている方にかぎらず，保護観察官，ソーシャルワーカー，さまざまな心理職，調査官といった援助職の方たちに読まれることを切望します。本書が，私たちそれぞれの仕事の困難の中に希望を見出す手助けをしてくれる著作であると私は信じます。
ケースメントさんの処女作『患者から学ぶ』（ロンドンの専門書店カーナック・ブックスで史上最も売れた本です），第二作の『さらに患者から学ぶ』，グラディーヴァ賞を得た第三作『あやまちから学ぶ』というすべての翻訳に私はかかわってきました。とても幸運なことでした。また今，『人生から学ぶ』という精神分析著作の範疇を超えた著書に出会った喜びに感動しています。
本書の翻訳は，精神分析を志向する精神科医山田信氏によって手がけられました。彼の豊かな教養と人生経験，分析的な臨床経験，真摯な臨床姿勢があって初めて，本書が血の通う日本語の書物となりえたことをここに記しておきたいと思います。
読者の皆さんに，私たちが本書で出会った感動に是非触れていただきたいと私たちはこころから願っています。
<strong>松木邦裕</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>絵画療法Ⅱ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/10/post_233.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.422</id>
   
   <published>2009-10-26T05:46:16Z</published>
   <updated>2009-10-26T06:41:53Z</updated>
   
   <summary>絵画療法Ⅱ|かいがりょうほう２</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="94" label="芸術療法" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>●目次</strong>
　
序文（飯森眞喜雄）
はじめに―21 世紀の芸術療法・表現病理学に向けて（伊集院清一）
第1章　反復する描画主題と語り―長期入院統合失調症患者の絵画療法（中村　研之）
第2章　描画表現の推移にみる自己再発見のプロセス―急性期病棟における絵画療法（三根　芳明）
第3章　言語化への橋渡しとしてのテーマ画―不登校事例への援助を通して（寺沢英理子）
第4章　描画とともに―治療空間のために（渡邊　浩樹）
第5章　出会いと再発見の場としての集団絵画療法―集団入院患者への絵画療法（中村　　純・比嘉　俊江）
第6章　精神科デイケアにおけるアートセラピー（関　　則雄）
第7章　芸術療法を使いこなすクライエント―摂食障害事例への絵画療法（寺沢英理子）
第8章　アートセラピー・芸術療法の観点からみた統合失調症における心的機制についての一論（伊集院清一）
索引]]>
      <![CDATA[<strong>●「はじめに」</strong>より抜粋
　芸術療法・表現病理学の21 世紀における課題を，非差異化の方向性と差異化の方向性の視点から論じるなら，この領域の学会としての日本芸術療法学会の現状を把握することからはじめねばなるまい。この学会は，今や多様かつ細分化された分野，異なる世代，種々の治療や研究の場を擁しているといえる。分科会ともいえる学会や協会を次々に形成され，それぞれが独立傾向を強めている。いわゆるサイコセラピー（精神療法・心理療法）が多様化し変形してきたことも，その要因の一つであろう。
　また，病棟や病院という確固とした治療構造上の枠をもつ現場に身を置く医者や看護スタッフ，パラメディカルスタッフなどの医療従事者からの視点と，クリニックや心理臨床の場，種々の社会復帰施設や養護・介護施設の場，司法の場，あるいは医療や心理学の枠組を越えたヒーリングの場などの，治療構造上の存在しない，ないしは希薄な現場からの視点が，うまく噛み合っていないのではないかという指摘もある。職種の違い，現場が目的とするものの違いが，その背景にあるとも考えられる。
　それぞれの依って立つ基盤が分化しすぎており，その手法や手技も多様化しすぎているため，共通の言語による交流ができないということの現れかもしれない。世代間ギャップが大きすぎて会話が成立しづらいという面もある。
　このような状況を考慮すれば，それを解きほぐすための第一歩として，種々の差異性を再統合する場が必要といえるだろう。今回のこの芸術療法講座のシリーズの存在意義は，このような対話の場を作り出し深めていくことにあるといってもよいかもしれない。絵画療法のⅠ，Ⅱでは，多様なバックグラウンドを有する方たちに，細かい絵画療法課程を，症例を挙げて提示してもらい，その寄る辺となる理論的背景にも言及していただいた。非差異化の方向性を追求する普遍的なテーマへと繋がっていくことを祈って。
　海外の学会に出席していると，これからは，新しい国や地域から，パラダイムの変革を告げる概念が生まれてくる可能性が高いと感じられることもしばしばである。こうした現象を視野に入れながら，われわれは自らの領域においても，これからの世界の動きを見つめていかなければならないだろう。
　芸術は決して滅びはしない。人間に，心が，パッションがある限り。本来懐の深い学問であるこの領域に，若い後輩たちが，いろいろなジャンルから集い，情熱をもって語り合い，21 世紀もまた大きな大輪の花を咲かせつづけてくれることを願っている。この講座のシリーズが，多少ともその手助けにならんことを心から祈ってやまない。
（<strong>伊集院清一</strong>）]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>新・外傷性精神障害</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/08/post_232.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.420</id>
   
   <published>2009-08-27T01:38:47Z</published>
   <updated>2009-08-27T02:22:11Z</updated>
   
   <summary>新・外傷性精神障害|がいしょうせいせいしんしょうがい・しん</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="020精神医学・精神医療" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>［主要目次］</strong>
第１部　外傷理論入門
　１　「外傷理論」とは何か
　２　外傷とは何か
　３　治療に向けての心構え
　４　精神分析における外傷理論（1）
　５　精神分析における外傷理論（2）
第２部　外傷性精神障害を知る
　１　外傷性精神障害にはどのようなものがあるか
　２　外傷の分類
　３　心的外傷後ストレス障害（1）
　４　心的外傷後ストレス障害（2）
　５　解離性障害（1）
　６　解離性障害（2）
　７　解離性障害（3）
　８　外傷性障害としての境界性パーソナリティ障害
第３部　外傷理論を越えて
　１　「外傷性精神障害」の再考
　２　外傷概念の拡大と拡散
　３　PTSDと解離の架け橋としてのASD
　４　外傷性精神障害は「神経症」の一種なのか？
　５　外傷性精神障害は「パーソナリティ障害」なのか？
　６　日常の出来事の外傷性
　７　レジリエンス
第４部　外傷性精神障害の治療
　１　精神療法の基本的な考え方
　２　基本的な介入の手続き
　３　全体的な治療プロセス
　４　ある治療例の実際（1）
　５　ある治療例の実際（2）]]>
      <![CDATA[<strong>第３部第７章</strong>より抜粋■
私は本書を通して，外傷に関する考え方が時代とともに推移して行く様子を描くことを試みた。「旧版」に加えて新たに設けられた第３部は，1980年のDSM–Ⅲ以来変化し続けた外傷理論の，これまでの軌跡や今後の行方を示すような論考を集めたものである。ここまでは，過去20年余りの間に生じた外傷の概念の変化について述べた。それは外傷は人が不運にも遭遇し，必然的に外傷性精神障害を発症するようなものであるという理解から，実は多くの人に日常的に起きている可能性があるものという認識への推移であった。外傷とは，それに出会った人の脆弱性やその他の偶発的な要素により外傷性精神障害を招くに至ったものとして捉えなおすことができるのである。
このような理解の推移は，外傷概念の拡大や拡散であり，それが同時に曖昧なものになったとも言うことができる。外傷は人生のなかでさほど特異な出来事ではなくなり，PTSD等の外傷性精神障害には，そこに患者の側の脆弱性が関与した，いわば内因性の疾患としての性質を読み取ることも可能となったのである。
このように捉えなおされた外傷性精神障害はまた，いわゆる「ストレス‐脆弱性モデル」への回帰というニュアンスを含むと言っていいであろう。ここでのストレスはそれ自体はニュートラルな存在であり，個人がそれに過剰に反応することにより結果的に外傷にもなりうるのである。このモデルは，環境からのストレスと個人の脆弱性とが重なったところで疾患が生じるという理解に基づき，外傷性精神障害が注目を浴びるはるか前から，精神医学で内因性の障害を説明する上で主流の考え方だったわけだ。
さてここにレジリエンスの概念が登場する。ある程度深刻なストレスは，それに対する脆弱性を有する人にとっては外傷となる。それではその深刻なストレスをいわば解毒し，場合によっては糧にして成長する能力を有する人，つまりレジリエンスを備えた人にとっては，そのストレスはどのような意味を持つのであろうか？
ところで私はこのレジリエンスの概念は，ある意味では外傷理論のかなたにあるものを指し示していると考えている。「誰がストレスに際して外傷性の反応を示し，誰がそうでないか」という問題を，より立体的に捉えなおすことをレジリエンスは可能にするのである。これまでの外傷理論は，人がいかに外傷性のストレスにより精神障害をきたすのかを明らかにすることに貢献してきた。しかしレジリエンスの概念が提起するのは，一般的に人はストレスに際して外傷性の反応をいかに起こさずにすむかという問題である。そこには，人間は通常は自然な治癒過程をたどることにより，PTSDそのほかの外傷性障害を起こさずにすんでいるという事実がより強調されることになる。深刻な外傷性のストレスにさらされた場合にPTSDを発症する人々の割合は，14％程度と報告される。すなわち発症しない人の割合のほうが圧倒的に高いことになり，それを可能にするレジリエンスのおかげで私たちは健康を維持することができているのである。
<strong>（岡野憲一郎）</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>学校現場に生かす精神分析【実践編】</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/08/post_231.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.416</id>
   
   <published>2009-08-26T01:26:31Z</published>
   <updated>2009-08-26T02:39:22Z</updated>
   
   <summary>学校現場に生かす精神分析【実践編】|がっこうげんばにいかすせいしんぶんせき</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="050発達・思春期・老年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="76" label="対象関係論" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="77" label="英国の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>［主要目次］</strong>
　
はじめに
第１章　「赤ちゃんはどこから来るの？」──子どもに学びたいと思わせるのは何か
第２章　理論的概観──精神分析の概念とその応用入門
第３章　遊び、遊び感覚、学ぶこと
第４章　潜 伏 期
第５章　青 年 期
第６章　はじまり、おわり、移行
第７章　行動を理解すること──教室での洞察と観察の価値
第８章　特別支援教育
第９章　学校の集団力動
第10章　投影のプロセス──「ギャング」集団、いじめ、人種差別
第11章　家族と学校
第12章　査定、評価、視察
第13章　統合、排除、自己排除]]>
      <![CDATA[<strong>あとがき</strong>より抜粋■
　現代日本の公立小中学校には、すぐには解決できそうもない問題が山積している。さまざまな水準で教育改革が続けられているが、問題は一向に減っていかない。むしろ増えているような印象すらある。なかでも本書の中心テーマでもある「学ぶことができない子ども」の問題は、教育機関である学校の深刻な問題のひとつである。これは特別支援教育として論じられる類のものだけではない。また最近では、学校機能の中心ともいえる「授業」が成立しないという問題も際立ってきている。この「授業が成立しない」という現象は、学校現場をじかに見る機会のない人にとっては、なかなか想像しにくいのだろう。そのためしばしば、学習内容の量の問題、教師の指導力不足や子どもの躾の問題として片付けられてしまう。しかし多くの場合、事態はそれほど単純なものではない。
本書を読み進めると、学校現場の抱える問題の深刻さが、洋の東西を問わないことがよく理解できる。教師たちは、日夜、すぐには「解決できない問題」の「解決」を求めて子どものために奔走しつづけている。それはこうした問題に直面する大人に、つよい焦燥感と切迫感を喚起するからである。そして無力感や憤りに加え、羨望などの強烈な情緒も交錯して、奔走する大人たちの思考はじわじわと侵食されていく。やがて大人の思慮深さや理性的に考える力が損なわれ、考えなしに行動したり、激しい意見対立によって同僚や関係機関との協働も破壊され、ステレオタイプな対応に終始したり、予測可能な問題でも実際に事が起きるまで何もできず、後手後手の対応に振り回されることになる。つまり「わけも分からず」対応に忙殺され消耗し、現実感覚までもが失われていくのである。いわゆる「荒れる学校」や「学級崩壊」のなかで生じる教職員の士気の低下や機能不全、病気休職などの背景には、しばしばこうしたプロセスを見て取れる。
本書では、既存の精神分析の概念や集団力動の概念を応用して、こうした「解決できない問題」をせめて「考えることのできる問題」に変容させ、大人の現実感覚の喪失や機能障害を克服していくための手がかりが提示されている。なかでも乳幼児観察の応用、コンテインド／コンテイナーのモデル、コンテインメント、集団心性の理論、妄想・分裂ポジションの観点からの非行やいじめの心性へのアプローチは、実際の学校現場で役立つ卓越した考察である。
本書で展開されている精神分析の学校への応用とは、精神分析的実践やその思考プロセスを教育の営みのひとつとして取り入れ、その得られた理解を教育実践に役立たせることに力点が置かれている。
本書では精神分析の応用として、学習理論、精神発達や集団心性の理論、学校が直面する今日的な問題などの考察が網羅されている。その意味で本書は、精神分析的な「教育心理学のテキスト」としての意義をもっていると思う。
<strong>（鈴木誠</strong>）]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>自閉症の親として</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/06/post_230.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.412</id>
   
   <published>2009-06-04T08:07:51Z</published>
   <updated>2009-06-04T08:37:34Z</updated>
   
   <summary>自閉症の親として|じへいしょうのおやとして</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="050発達・思春期・老年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="060自閉症・発達障害" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="112" label="自閉症" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>目次●</strong>

謝辞　
まえがき　

第１章	自閉症と診断されてから立て直した生活　
――エリックの母親アンの場合

第２章	自閉症と診断されてから立て直した生活　
――ジャスティンの母親モリーンの場合

第３章	家族生活のバランスを保つために　
　レッスン１　ユニークな見方をするきょうだい　
　レッスン２　きょうだいは自分の感情を話し合う時間が必要　
　レッスン３　自閉症のきょうだいに対する家庭外でのサポート　
　レッスン４　自閉症のきょうだいたちも自分のための特別な時間を必要としている　
　レッスン５　家族全員で同じことをする必要はない　
　レッスン６　きょうだいにどれくらいの責任を持たせるかを決めるのは難しい　
　レッスン７　親は効果的なロールモデルである　
　レッスン８　きょうだいたちは友達の影響を強く受けるものである　　
　レッスン９　親は健常なきょうだいの行動に感謝すべきです　
　レッスン10　きょうだいの成長　

第４章	安定した家族生活を営むために　
――結婚と親戚づきあい
　結婚
　レッスン１　夫と妻は悲しみが異なる場合がある　
　レッスン２　夫婦はお互い与え合うべき可能性を見つけるべきです　
　レッスン３　責任はできることによって分担すべきである　
　レッスン４　夫婦のための時間を作ることが必要　
　親戚づきあいについて
　レッスン１　期待を補正する必要があるかもしれない　
　レッスン２　親戚も自閉症児の教育から何かを得る可能性がある　
　レッスン３　必要であれば援助を受け入れるべき　
　レッスン４　場合によっては「そこまで」と言う頃合を知らなければならない　

第５章　子どもたちの人権を守る　
　Ⅰ　専門家とポジティブな関係を築くためには　
　レッスン１　子どものために何をしてあげたいかを具体的に示すこと　
　レッスン２　子どもはできるだけ権利の分け前にあずかるべきである　
　レッスン３　保護者は子どもの自己擁護スキルを伸ばす必要がある　
　レッスン４　わかりやすくまとめておく　
　Ⅱ　衝突から脱皮しよう　
　レッスン１　教師等の専門家との関係が親のストレスを引き起こす　
　レッスン２　教師等専門家も親との対人関係にストレスを感じている　
　レッスン３　耳を傾けることが鍵である　
　レッスン４　焦点を当てるべきなのは立場ではなく、興味・関心である　
　レッスン５　良いコミュニケーションはチームワークを育てる　
　レッスン６　感情は争いから取り除くべきである　　
　レッスン７　あきらめない粘り強さを有効に働かせる　
　レッスン８　子どもが必要なサービスを受けるため弁護しなければならない　
　Ⅲ　ときには権利擁護が失敗するということを理解しなければならない　　
　レッスン１　親はサポートシステムを広げていく必要がある　
　レッスン２　もし可能であれば、学校を変えることも必要な場合がある　
　レッスン３　みんな「禍を転じて福となす」が可能なのです　
　Ⅳ　専門家が行う「最善の方法」の質を見極める　
　
第６章　私たち自身に対するケア　
　レッスン１　睡眠を優先すべき　
　レッスン２　私たちは「ほどいよい親」であると認めよう　
　レッスン３　リスパイトサービスは息抜きを与えることができる　
　レッスン４　ときどき休んだりすることはとても大切なことである　
　レッスン５　ユーモアのセンスが戻ってくれば安心　
　レッスン６　友だちはライフセーバーであるかもしれない　

第７章	私たち自身の道を求めて　
　レッスン１　早期介入が必ずしも未来につながる唯一の鍵ではない　
　レッスン２　すべての自閉症児に適した治療法はない　
　レッスン３　思春期が一番悪い時期ではない　
　レッスン４　機能レベルは成功度を唯一予測するものではない　
　レッスン５　学校でうまくいったからといってすべてがうまくいくわけではない　
　レッスン６　自閉症を治療してもらうことを望んでいるのではない　

第８章	世間一般の人たちとの対応　　
　レッスン１　家族全員のためになる外出を考える　
　レッスン２　不測の事態のすべてに準備をしておく必要がある　
　レッスン３　数が多ければストレスは軽減される　
　レッスン４　誰かほかの人にお願いしてもかまわない　
　レッスン５　どれだけの情報を与えるべきか注意して選ぶべきである　
　レッスン６　オープンにするかどうかは自閉症の子どもの意思を尊重すべき　
　レッスン７　公の場で親にとって有効なのは、仲間を作ることです　
　レッスン８　私たちは、そうではないのに、他人が子どもを非難していると決めてかかることがある　
　　
第９章	子どもたちおよび私たち自身を受け入れること　
　レッスン１　障害の存在を認め、その障害が長期にわたることを認めること　
　レッスン２　子どもとその障害を家族との生活に共存させる　
　レッスン３　私たち自身の失敗や誤りを許すようにすべきです　
　レッスン４　私たちの喪失感に意味を見つける　

第１０章　子どもを手放すこと（アンの場合）　

第１１章　子どもを手放すこと（モリーンの場合）　
　
あとがき
参考文献]]>
      <![CDATA[<strong>あとがき</strong>より●
　私は、二〇〇六年八月から二〇〇七年九月までの約一年一カ月間、ノースカロライナ州アッシュビル市にあるアッシュビルＴＥＡＣＣＨセンターで自閉症者支援に関する研修を受けました。このアッシュビルＴＥＡＣＣＨセンターには、ディレクターと呼ばれるセンター長はじめ六人のセラピストが乳幼児の診断から成人期の就労までさまざまなサポートを行っていました。そのなかの一人にクリス・リーガンという女性のセラピストがいました。彼女には四人の息子がおり、一番下の息子ティムが消防士で、もうすぐ結婚するという時期でした。そのすぐ上に大学院で哲学を勉強しているアンディがおり、またその上に考古学を勉強しながら森林レインジャーになったジェームスがいました。そして長兄として当時二十七歳になるバッキーがいたのですが、そのバッキーは知的障害を伴う自閉症でした。
　バッキーは家から離れてグループホームに居住しながら働いており、絵を描くのとマラソンが大好きなとても素敵な青年でした。
　クリスの夫マイクは父親が朝鮮戦争に従軍していたため、小さいときに日本の別府に住んでいたためか、とても日本が好きなのだそうです。クリスとマイクは学生時代にボランティアで英語を教えに行ったアフリカで知り合い、アメリカに帰ってきて結婚しました。
　そして最初に生まれたバッキーが自閉症だったのです。

私がＴＥＡＣＣＨセンターで研修を受けてふた月ほど経過したころでしょうか、そのクリスが私のところへやって来て、「この本はとてもいい本よ、ぜひ読んでみるといいわよ」と手渡されたのが、『自閉症の親として』でした。（その時は、この『自閉症の親として』が後に二〇〇七年の全米自閉症協会〝ベストブック・オブ・ザ・イヤー″に選ばれるとはまったく想像していませんでしたが。）
バッキーが生まれたころは、アメリカでも自閉症の原因は、親にその責任があるように言われている時期でした。クリスは藁をもすがる気持ちでいろいろな機関を訪れるも、どこも十分な対応はしてくれませんでした。そんななか、ノースカロライナ大学医学部精神科ＴＥＡＣＣＨ部を知り、リー・マーカス教授が母親の会を立ち上げていると聞き、飛び込みました。マーカス教授はとても優しく、保護者の気持ちを心から受け止めてくれたそうです。その母親の会でクリスは親しい友人ができました。その友人たちとは二十年以上経た今でも親しい付き合いをしています。その友人の名がアン・パーマーとモリーン・モーレルでした。

研修の合間を縫って、クリスから紹介されたこの本を読み進めるにつれ、いつの間にか保護者であるアンとモリーンの気持ちに共感し、ぜひこの本を日本の自閉症の親および関係者に紹介したいと思うようになりました。そんな折、『青年期自閉症へのサポート』でお世話になった岩崎学術出版社の唐沢さんとのＣＡＲＳのニューバージョンであるCARS-HF（高機能自閉症・アスペルガー症候群の自閉症評定尺度）についてのやり取りをメールで行っていたため、この本を訳したい旨をお伝えしました。翻訳本はどこの出版社でもあまりやりたくないと聞いていたのですが、唐沢さんのご尽力により翻訳権を取っていただきました。それから日本とアメリカとのメールのやり取りで一章ずつ訳したものを検討していただき、訳がわかりづらかったところはクリスを通してアンとモリーンに何度か会わせていただき、確認させていただきました。
その間、バッキーのマラソン大会に一緒に出たり、バッキーの描いた絵の展覧会に行ったり、また何度もクリス邸の食事に呼んでいただき、アンやモリーン、モリーンの夫のロブと話をする機会を設けてもらいました。
とりわけ、四男ティムの結婚式に私も呼んでもらうことになり、アンの娘のセイラやモリーン夫妻らも参加した結婚式とその後のパーティーは、とても思い出深いものになりました。というのは、パーティーには自閉症の兄バッキーも参加したのですが、新郎新婦だけではなく、クリス夫妻や新婦の祖父母などみんながダンスをし始めるのです。しかしながら、バッキーはずっと立ちっぱなしでした。そんなバッキーを見た新婦の友だちたちが、一人ひとりバッキーをリードしながらダンスを踊り始めるシーンは、まるでレインマンの映画を見ているようで、生涯忘れることができないでしょう。
そうして足かけ二年がかりで出版にこぎつけました。英語の専門家ではない私の拙い訳について、唐沢さんも一緒に考えていただきました。そういった意味ではこの本は私の訳書というよりも唐沢さんとの共訳と言っても過言ではありません。
唐沢さんには心よりお礼申し上げます。

私の恩師である児童精神科医の佐々木正美先生はおっしゃいます。
「障害というものは本人に帰するものではなく、その人と健常と呼ばれる人との間にある壁のことを意味するのです」と。この本の中に疲弊しきったモリーンが、ある学校心理士と出会った後の気持ちを述べる箇所があります。その時のモリーンの気持ちは、まさに佐々木先生がおっしゃる「壁」を意味するものと思います。なぜなら、自閉症という障害を否定するのではなく、自閉症は自閉症のままでいい、周りが自閉症の人、そしてその保護者を理解してあげることにより、その壁は崩していけるのです。
この本はそういった自閉症者およびその家族をとりまく周りの理解、支援について訴える名著といっていいでしょう。
この本によって、自閉症と関わる専門家だけではなく、多くの一般の人たちに対する自閉症の理解が進み、また自閉症と診断されたお子さんを持つ多くの保護者が勇気づけられることになれば、訳者として何よりの幸せです。
最後になりましたが、自閉症およびその家族への理解と支援がますます広がっていくことを願っています。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　咲き誇る桜の香りで春を感じる宇都宮大学にて
梅永　雄二]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【改訂】精神科養生のコツ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/05/post_229.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.409</id>
   
   <published>2009-05-18T02:53:57Z</published>
   <updated>2009-05-18T03:01:59Z</updated>
   
   <summary>【改訂】精神科養生のコツ|せいしんかようじょうのこつ</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="020精神医学・精神医療" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="88" label="神田橋條治" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>目次●</strong>
　
改訂版のまえがき
初版のまえがき
　
第一章　「気持ちがいい」を信じる
　１　練習の第一段階
　２　練習の第二段階
第二章　養生から治療まで
　１　練習の第一段階　内側へ注意を向ける
　２　練習の第二段階　生物としての活動を加減する
第三章　こころの病気ではなく，脳の病気である
　１　こころと脳の関係
　２　脳の状態を意識する
　３　脳のより良い状態を工夫する
第四章　自然治癒力の働きを見つける
　１　感覚の分野
　２　運動の分野
　３　生理的な分野
第五章　過去をまとめ，未来を目指す
　１　自分史を作る
　２　愛する・夢
　３　花
第六章　指テストと舌トントン
　１　Oリング・テスト
　２　指タッピング法
　３　入江フィンガーテスト
　４　舌トントン
　５　脳の直接感覚
　６　味わう
第七章　自分で整体
　１　わたくしたちの骨格
　２　体を緩める
　３　O脚修正
　４　上半身の修正（踵眺めの１）
　５　下半身の修正（踵眺めの２）
　６　ワニの体操
　７　水中のラッコ
　８　うつ伏せ寝
　９　ストレッチ・ポール
　10　枕の工夫
第八章　気と経絡
　１　背中に日光
　２　往復運動を円運動に変える「８の字回し」
　３　掌で気功
　４　頭の邪氣をとる
　５　体の気功
　６　人生の気功
　７　腹式呼吸
　８　経絡を気でつなぐ
　９　数の子の気功
　10　焼酎風呂
　11　天地につながる
第九章　フィードバック
　１　転写水療法
　２　自分の声を脳に入れる
　３　布団に潜る
　４　日記の読み返し
　５　鏡の利用
　６　痛　み
　７　心理療法
第十章　代替医療・民間療法・健康法
　１　漢方薬
　２　鍼　灸
　３　民間薬やサプリメント
　４　ホメオパシー
　５　アロマセラピー
　６　バッチ・フラワー・レメディー
　７　体からこころへ
　８　電磁波防御
第十一章　いろいろな症状への対処
　１　頭　痛
　２　めまい
　３　冷え性
　４　リストカット
　５　フラッシュバック
　６　発達障害
　７　血栓症
第十二章　いろいろな「病気」について
　１　精神科医療とのつきあいの心得
　２　精神科の病気の本態について
　３　統合失調症
　４　神経症
　５　うつ病
　６　双極性感情障害
　７　性格障害
　８　その他
　
あとがき]]>
      <![CDATA[<strong>「改訂版のまえがき」</strong>から抜粋●
　初版からちょうど十年が経ちました。この間，わたくしは古希を迎え，週3日のパート医となりました。加齢からの衰えを考え，心身に余裕をつくる予定でした。ところが，生来の教え好きのせいで，頼まれるままに，あちこちでの合宿勉強会を引き受けてしまいました。また，外来患者が多くなり忙しくなりました。忙しくなったせいで，本を読まなくなりましたが，現場での工夫のほうは増えました。養生のコツもずいぶん溜まり，改訂に取りかかりました。困ったのは，最近のわたくしの診療は，行き当たりばったりの，一発芸的な助言が多くて，一貫性を欠くことです。そうした雑多な助言を拾い集めて，汎用性のある助言にまとめるのに苦労しました。また，養生法や助言を皆さんが試行されるうちに，一人ひとりが，自分に合ったやり方を思いつかれて，自己流が生まれますようにと工夫しました。工夫しているとき，気づきがありました。それは，この本での「養生のコツ」の基底にあるのは，「原始生命体の機能を呼び戻しましょう」との呼びかけであるとの気づきです。
　精神科治療学が医学の他の分野にくらべて遅れているのは，動物実験で代用できる部分が少ないせいです。精神の病は，動物であるヒト種の病ではない，人間の病だからです。その理由は，わたくしたちはヒトではなく，内側に文化を組み込んでいる人間というありようであり，そのありようを脱することはできないからなのです。いま必要なのは，他の生物と同じようにもっている，原始生命体の機能を呼び戻し，それと，進化が生み出した人間というありようとの和解を図ることです。昨今，哲学の分野からその作業が進められているようです。わたくしは病と養生の現場で同じ作業を試みているのでしょう。]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>ウィニコットとの精神分析の記録【新装版】</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/05/post_228.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.408</id>
   
   <published>2009-05-18T02:33:22Z</published>
   <updated>2009-05-25T01:42:47Z</updated>
   
   <summary>ウィニコットとの精神分析の記録|うぃにこっととのせいしんぶんせきのきろく</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="010精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="88" label="神田橋條治" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="77" label="英国の精神分析" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      目次●
　
　第1章　James S. Grotsteinによる，イントロダクション

第Ⅰ部　Winnicottは，精神病水準の不安の在りか，に働きかけます――わたくしの個人史

　第2章　自己分析を語るさいの危険
　第3章　Dr. X. との精神療法　1936～1938年
　第4章　Ella Freeman Sharpeとの，精神療法　1940～1947年
　第5章　D. W. W. との精神療法　1949～1955年，そして1957年
　第6章　その後のこと　1957～1984年まで
　第7章　教師としての，Winnicott

第Ⅱ部　依存状態への退行，の価値

　第8章　退行の価値
　第9章　精神病水準の不安，の開拓
　第10章　母のハンドバッグから盗んだもの
　終章　Donald Winnicott，その人

文献
訳者あとがき
      <![CDATA[<strong>「新装版へ添えて」</strong>より
　訳者あとがきに語っているいきさつで，僕はこの本を訳しました。隅々まで愛着こめて訳しました。内容がリトルさんのウィニコットへの愛着に溢れているので，僕の愛着とが溶け合って，情感を搾り出すような訳文となりました。句読点が多すぎる訳文の文体は，読みづらいかもしれませんが，写真にある老いたリトルさんの息遣いを示しえていると感じて，僕は気に入っています。
　想いをこめた訳書だったので，あまり売れなかったのは悲しいことでした。在庫切れのまま消えてしまうのだろう。理論や技法を表立って提示していない内容だから仕方ない，とあきらめていました。ところが最近，欲しいとおっしゃる声をあちこちで聞くようになりました。治療現場の実像を知ることで理論と行為との連関を把握したい，との実務家の要望の深まり，つまりわが国における精神療法の成熟，に由来するのであろうと思い嬉しい心地です。
　少しでも値段の安いものにしたいので，ソフトカバーにしてもらいました。また，表題と副題とを入れ替えました。上に述べたような本書の現時点での役割を考えての変更なのです。それ以外には訳文の内容もまったく変更ありません。初版をお持ちの方がうっかりして購入されることのないようにお願いします。
　これは熱っぽい危険な治療実践の記録です。だけど，スッキリした治療技法の底に，このような熱っぽいかかわりが潜んでいる，2つは矛盾なく両立する，いや，2つが互いに支え合ってこそ実効を発揮するのだ。老いを加えるにしたがい，そう確信するようになっています。
　
<strong>「訳者あとがき」</strong>より抜粋●
　M. Littleの名は，精神療法の技法探索の，わたくしの歴史の，冒頭に居る人であった。本を手にとって拾い読みするうちに，M. Littleは，Winnicottから精神分析を受けた人であることが分かった。Winnicottについては，わたくしのなかに，特別の思い出があった。
　1990年に，本書が出版された。その内容は，Winnicottとの治療分析の，詳細であった。ご覧のように，鮮烈な内容であった。訳業の途中で，胸に突き上がってくる感情を抑えるべく，しばし瞑目することが，幾度かあった。
　また，Littleさんによって描きだされているWinnicottの考えや行動が，わたくしが理想として目指している精神療法家の像と一致しているので，嬉しくなり，Littleさんへの親しみが強くなった。原著書にはない，Winnicottの写真と，Littleさんの写真とを，並べて収載して，Littleさんへのプレゼントにしたくなった。そこで，Littleさんのいちばん気に入っているWinnicottの写真を，送ってもらった。実は，1972年に，国際精神分析学会誌の，Winnicott追悼号がだされている。そこに用いられている写真が，わたくしのいちばん気に入っているWinnicott像である。Littleさんとわたくしとでの，Winnicott像の違いであった。わたくしは，少しばかり未練を残しながら，Littleさんに譲った。だって，これはLittleさんの本なのだから。
<strong>神田橋條治</strong>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>フォーカシングの原点と臨床的展開</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.iwasaki-ap.co.jp/2009/05/post_227.html" />
   <id>tag:www.iwasaki-ap.co.jp,2009://1.404</id>
   
   <published>2009-05-01T01:02:37Z</published>
   <updated>2009-06-04T10:59:25Z</updated>
   
   <summary>フォーカシングの原点と臨床的展開|ふぉーかしんぐのげんてんとりんしょうてきてんかい</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="030心理療法・カウンセリング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="111" label="フォーカシング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="96" label="ロジャーズ派" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iwasaki-ap.co.jp/">
      <![CDATA[<strong>目　　次●</strong>
　
はじめに（諸富祥彦）

<strong>第一部　概　　観</strong>
　第一章　フォーカシングの原点―その哲学の基本的特質及びロジャーズとの関係（諸富祥彦）
　　一　エッジ（辺縁）での思考
　　二　「暗黙なるもの」の哲学―occurring into implying
　　三　停止と葉状化―変化を促すもの
　　四　「暗黙なるもの」による思考―イサドラ・ダンカンの場合
　　五　フォーカシングにおいて「全体」を感じることの意義―ナルシシズムへの警告
　　六　まず相互作用ありき（interaction first）
　　七　「体験過程」概念をめぐって
　　八　ロジャーズ‐ジェンドリン関係
　　九　ロジャーズのexperiencing概念理解
　　十　ジェンドリンはロジャーズの正統な後継者なのか

<strong>第二部　哲学的思考</strong>
　第二章　ジェンドリンの思索における哲学的背景（村里忠之）
　　一　はじめに―ジェンドリンの哲学
　　二　暗在性＝形式以上のもの
　　三　ポストモダン以降を生きる方法としてのフォーカシングとTAE
　　四　先駆者たち（１）
　　五　先駆者たち（２）
　　六　ハイデッガー以降の現代哲学の難点
　　七　体験的複雑さを用いて考える
　　八　再びハイデッガー―哲学と心理学
　　九　暗在性の哲学の実践としてのフォーカシングとTAE

　第三章　臨床的問題としてのジェンドリン哲学（末武康弘）
　　一　はじめに―ジェンドリン哲学へのアプローチ
　　二　体験過程，象徴，意味―体験過程論の展開
　　三　夢，身体，隠喩―現象学的方法による夢解釈
　　四　体験の複雑性，自我と非自我，身体感覚が導くプロセス―ナルシシズム概念批判と社会的提言
　　五　暗在的含意，生起，進化―プロセスモデルの臨床的意義

<strong>第三部　臨床的展開</strong>
　第四章　フォーカシング指向心理療法の基礎概念―体識と対人的相互作用（近田輝行）
　　一　はじめに
　　二　体識とは何か
　　三　体識論の心理療法への適用
　　四　インタラクティブ・フォーカシング
　　五　おわりに

　第五章　日々の臨床実践の土台としてのフォーカシング（吉良安之）
　　一　はじめに
　　二　フォーカシングを土台にした心理療法
　　三　フォーカシング技法をセラピストのために生かす
　　四　心理臨床家の基底を支え拡充する方法としてのフォーカシング

　第六章　心理臨床にフォーカシングを活かす（伊藤研一）
　　一　私にとってのフォーカシング
　　二　フォーカシングの威力の実感
　　三　心理療法技法としてのフォーカシング
　　四　他の心理療法技法との併用と統合
　　五　治療者にとってのフォーカシング
　　六　まとめ

文　　献]]>
      <![CDATA[●<strong>「はじめに」</strong>より抜粋
　きわめて多面的な魅力を持つフォーカシングであるが，その理解のされ方が，どこか浅薄で表面的な傾向があることに残念な思いを抱いている人も少なくないのではないだろうか。マニュアル本も便利で悪くないが，もっとこの方法の本質に関わる底の部分にゴツンと触れる骨太の本はないものか。そんな思いはなかっただろうか。
　本書は，フォーカシングに深く携わってきた人なら心のどこかで感じていたはずの，こうした思いから生まれた「骨太のフォーカシングの本」である。
　本書ではあえて，きわめてマニュアル的ではない仕方で，フォーカシングやジェンドリンの思想とかかわっていく。
　ジェンドリン自身，おそらくは十分に自覚的にそうした戦略をとってきたであろうように，彼の哲学論文で使われる概念と，心理療法論やフォーカシングにかかわる著作で使われる概念とは（もちろん本質的な次元では同一性が認められるけれども）かなりの隔たりがある。論じるテーマの射程は，心理療法論やフォーカシング論ではかなり限定的であり，哲学論文になると一気に広くなる。そのため，フォーカシングや心理療法についてジェンドリンの考えに関心を持ち，十分な臨床実践の体験を踏まえた上で著作や論文を十分に読みこなしてきた人でさえ，ジェンドリンの難解な哲学論文を前にするとまったく歯が立たず，あきらめざるをえないという事態が頻繁に生じていた（というより，それが一般的でさえあった）。
　けれども彼の，心理療法論やフォーカシングの実践の持つ本質的な意味，そしてその社会的歴史的な意味を十分に理解するためには，やはりその哲学を踏まえた上で，心理療法やフォーカシングに立ち返って考えることが不可欠である。
　しかし，ジェンドリンの哲学を十分に理解した上で，彼の心理療法やフォーカシングの実践の社会的歴史的意味を掴み直す，という当然なされてしかるべきこの作業は，ひとつには彼の哲学論文が決して理解が容易なものではないこと，また，ひとつには，心理療法やフォーカシングの実践家には概して哲学や思想が不得手なものが多いことが妨げとなって，これまでほとんど着手されることがなかった。日本のみならず，世界的にみてもこの課題はようやく最近になって着手され始めたにすぎない。
　本書は，ジェンドリンの思索の原点である哲学と，彼が編み出したフォーカシングという心理技法の臨床的適用の往復運動という，世界的にも着手され始めたばかりの課題に取り組むささやかな試みのひとつである。哲学的ないし理論的な側面については村里，末武という，そしてフォーカシングの臨床的適用の側面については，吉良，近田，伊藤という，現在の日本における当該分野での，最良の執筆陣を得ることができた。間違いなくベストメンバーである。本書のような，いわば，フォーカシング的思索の「岩盤」を問うていくような，骨太のフォーカシングの著作はあまりなかっただけに，どのような反響を生み出すことができるか，たいへん楽しみである。]]>
   </content>
</entry>

</feed>
