目次
第1章 「クライン論文の衝撃」─はじめに
第2章 「微妙な批判の兆しに気づく必要性」─フェレンツィ,フロイト,そして精神分析との出会い
第3章 「どうやってお船たちはドナウ川に浮かべられるの?」─子どもの心的発達
第4章 「ただの奔放さにあらず」─初めてやってきた子どもの患者たち
第5章 「完全に現実離れしたイマーゴ」─フロイトからの離脱
第6章 「誰がそれを疑えようか?」─早期対象愛,心的防衛と解離のプロセス
第7章 「愛の対象の喪失」─アンビヴァレンスと抑うつ状態
第8章 「愛の対象の喪失」─抑うつポジションにおける悲劇性と道徳性
第9章 「この非現実的な現実」─クラインの空想(幻想)phantasy 概念
第10章 「超然とした敵意」─妄想分裂ポジション
第11章 「バラバラになること,自らを分割すること」─投影同一化,未統合状態と分割過程
第12章 「あまりにも得難いがゆえ」─羨望に関する2つの説明
第13章 「言葉なくても分かってほしい,果たされぬ望み」─孤独loneliness
内容説明
【訳者あとがきより抜粋】クライン派の理論や概念を紹介する著作は,シーガルの『メラニー・クライン入門』をはじめとして,これまでにも出版されてきたが,概してそれらは概念や理論の解説にあたって,著者たちの臨床自験例が使用されることが多く,メラニー・クライン自身の中での概念形成を捉えたものにはなりにくかった。それらはいわば,現代クライン派のコンサルティング・ルームから発信された「進化途上の口述伝承」であったといえるだろう。そこから得られる臨床概念は,今もなお発展し続ける現代クライン派の視座であり,いわばクライン派「内部」の訓練生にとって必須の元素である。 それに対して,本書『新釈 メラニー・クライン』でのリカーマンのアプローチは,探求の対象をほぼクライン自身の著作に焦点化するものであり,現代クライン派の臨床概念セミナーというよりはむしろ,純粋な「メラニー・クライン学」と呼ぶにふさわしい。これには,より広くクラインに関心を持つ読者にも開かれたいわば「考証学的」論考という特徴がある。そういう意味で本書は異色であるといえるだろう。 リカーマンのアプローチが生きてくるのは,特に?みがたい概念である「内的対象」や「無意識的空想」というたやすく言語をすり抜けてしまうように見える概念に向けての理解に関してである。これはある意味で逆説的であり興味深い。おそらく,精神分析を自ら受けていない人たちにとっては,これらの概念を既存の「口述伝承的」解説書から実感を伴って把握することは困難であろう。なぜならば,多くのそのような解説書は,読者が何らかの精神分析体験をもっていることを前提として語りかけているからである。 しかしながら,リカーマンの明晰な論述によって浮き上がってくるそれらの概念の定義や意味は,もしかすると分析体験を未だ持っていないという不利な状況でさえ,これらの不可思議で定義困難な概念に接近できる可能性をもたらす。これらの概念は,「そこにある」「ふれている」何か,だとは感じられたとしても,言葉を通してそれらを明確に理解することは非常に困難だった。だが,リカーマンがクライン自身の著作に立ち戻ることを可能にし,そこから見えてくるものに対する視野の倍率を著しく拡大したがゆえ,主要な概念はこれまでよりも明確で接近しやすいものとなった。これが可能となったのは,これらの概念が,そもそも精神分析を受けなければ把握できないというものでは決してないからであり,万人が日々体験している心的現象に他ならないからである。とはいえ,精神分析を受けるということが,それらに対する実感をもたらし,無意識的内的世界とそこに存在する内的対象の触知可能性を根本から高めることもまた確かである。したがって,本書によってクラインの概念がより近づきやすくなるとすれば,それは読者が精神分析を受けるという位置に接近したことを意味する。そういう意味では,リカーマンは,クラインの諸概念の形成プロセスを明確に可視化することによって,読者がクラインの著作を直接読むことを助け,さらには精神分析を受けることへと導く橋渡しをすることになるだろう。実は,このような橋渡しの試みこそ,リカーマンが彼女の仕事の重要な一部としてきたもののようである。 直接メラニー・クラインの著作を訪ねる経験というものこそ,再び新鮮な風にふれる可能性に満ちているのだということが,本書によって明らかになるだろう。本書は,読者があらためてメラニー・クラインの著作に親しもうとするその試みを支え,案内してくれる役割を持っているのである。本書の邦訳が,日本においても,さらにクライン理論への関心の扉を開く一助となることを私は期待している。