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改訳 遊ぶことと現実

目次

謝 辞
序 論
第1章 移行対象と移行現象
第2章 夢を見ること,空想すること,生きること── 一次的解離を記述するケース・ヒストリー
第3章 遊ぶこと──理論的記述
第4章 遊ぶこと──創造的活動と自己の探求
第5章 創造性とその諸起源
第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること
第7章 文化的体験の位置づけ
第8章 私たちの生きている場所
第9章 子どもの発達における母親と家族の鏡‐役割
第10章 本能欲動とは別に交叉同一化において相互に関係すること
第11章 青年期発達の現代的概念とその高等教育への示唆
終わりに
文 献

解 説
訳者あとがき
索 引
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橋本雅雄(はしもと まさお)
1942年 栃木県に生まれる
1968年 慶応義塾大学医学部卒業,医学博士
現 職 医療法人社団こころの会 田町クリニック院長

大矢泰士(おおや やすし)
1963年生まれ
東京大学文学部,教育学部教育心理学科卒業
東京都立大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士課程単位取得
専 攻 臨床心理学,精神分析学
現 職 東京国際大学大学院臨床心理学研究科准教授
青山心理臨床教育センター臨床心理士

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内容説明

【解説より抜粋】本書の著者D・W・ウィニコット(1896-1971)が亡くなってからほぼ半世紀になるが,最近になってもウィニコットに関する新しい書物が内外で続々と出版され,その関心は衰える気配がない。生前からウィニコットは世界各国に招かれて講義や講演を行い,ラジオ番組を持つなど,臨床家から一般の人にいたるまで幅広く知られていたが,没後久しいにもかかわらずこれだけの注目を得ているのは,後述のように,彼の発想のなかに同時代には容易に理解されない,時代を先取りした視点があったからでもあろう。また,ウィニコットへの今日の注目は,単純な理想化によるものではなく,そのさまざまな側面や複雑さを見つめながらそこから学ぼうとする,以前よりも成熟した受容になっているように思える。
 本書『遊ぶことと現実(Playing and Reality)』(原書1971年)は,ウィニコットの生前に編集されたものとして最後の論文集である。それ以前の,各時期の多様な臨床論文を集めた観のある『小児医学から精神分析へ』(1958)や『情緒発達の精神分析理論(原題:成熟の過程と促進的環境)』(1965)とはやや違って,移行現象と中間領域を扱った論文を中心に選ばれており,晩年を迎えたウィニコットの,ひとつのテーマを明確に打ち出そうとする意図がうかがえる論文集である。
 ウィニコットの文章は,平易な言葉を使っていて読みやすいように見える反面,実際には内容をしっかりと把握するのが難しく感じられる論文も多い。ウィニコットが読み手の理解の自由度を尊重する著者であったことは確かなので,必ずしもしっかりと把握するということを重視する必要もないのであろうが,彼の文章の特徴は彼の考え方の特徴でもあるという意味で(彼自身も本書のなかで「文は人なり」という格言を引用している),彼の文章について少し述べてみたい。
 彼の文章はあいまいであるとも,喚起的であるとも言われる。彼はメタサイコロジーの用語(無意識の心理に関する構成概念)を使うことが自分の体質には合わないと述べていて,フロイトのその種の著作を読むこと自体も苦手だったようであり,自分自身の言葉で語ることを大事にしていた。そのため彼は平易な日常語を用語のようにして使うことがたびたびあるが,その意味は通常多義的であり,ときには途中で意味が広がったり,次第に移り変わったり,あるいは彼自身が突然変えたように見えたりすることさえあって,固定的に捉えようとすると分からなくなってしまうことがある。しかし,彼は固定的な意味を伝達すること自体よりも,むしろ,読み手自身の感覚を喚起し,読み手自身の考えを生起させることに価値を置いていたようである。言い換えれば,単なる意味の伝達よりも,読む体験自体が生み出す意味に価値を見いだしていたということである(cf. Ogden 2001)。彼はふだんから個人の独立と自由に価値を置き,何かに対する盲従をひどく嫌い,「生きていること」を重視していた(その個人的背景についての精神分析的探索は本稿の役割ではないのであえて触れない)。ここからさらに言えば,他人の盲従を引き起こすような固定的な内容の伝達よりも,相手が喚起されて生き生きとすることのほうが彼の望むところであったのだろう。もちろん,これらは良いことばかりではなく,彼の言葉を借りれば,遊びに付随するprecariousness(不確かさ,あるいは危うさ)が付いて回ることにもなる。
 パラドックスを大切にしていること,あるいはパラドキシカルに語ることもまた,彼の言っていることを端的につかみにくく感じさせる要因の一つであろう。パラドックスは,互いに矛盾し対立しあう両極の「あいだ」に,はかなくも生きている形で表れる真実をとらえようとするものと言える。本書がテーマとしている「中間領域」はこのような「あいだ」の一例であるが,ウィニコットが伝えようとしたもののかなりの部分は,さまざまな次元において,このような「あいだ」にあるものである。人間的な真実はこのような弁証法的なやりかたでしか提示されえない側面があろうが,このように提示されるとそれ以上議論のしようがなくなってしまうのも事実である。このような弁証法的運動は,必ずしもひとつの文章のなかで完結させる必要はなく,当然ながら,ひとつの言説と他の言説とのあいだで生まれるものでもある。
 それとも関連するが,ウィニコットの理解しにくさの一つは,ひとつの考えを暗黙の前提としながら,それに対するアンチテーゼだけをいたずらっぼく提示するところにあるかもしれない。そのアンチテーゼ自体は刺激的でありながらも,むしろ前提となっているテーゼと彼のアンチテーゼのあいだにこそ生き生きとしたものが感じられることがある。彼はフロイトやクラインを読んでから自分の文章を読んでほしいと言い,この両者の価値を一貫して認めていた。彼の文章だけを読んで喚起されるものにも大いに価値があるのは間違いないが,フロイトとクラインの文脈に置いてみることで,また違った風景が奥行感を伴って見えてくる場合が多いことも初学者には伝えおきたい。
 ウィニコットの考えの新しさの一つは,上記のような「あいだ」への注目にあり,それによって,フロイトやクラインに立脚しながらも臨床的な現象をより的確にとらえるパラダイムを開いたところにあると言える。ただ,それを必ずしも理論的な言葉ではなく,そのパラダイムそのものを反映する独自の語り方で示していることが,彼の魅力でもあり,つかみにくさでもある。

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